8月15日を迎えての雑感(令和7年8月記)
今年も終戦の日がやってきた。敗戦記念日と命名し直した方がよいと思ってきたが、国辱なのであろうか、敗戦記念日とは言わない。とりわけ、今年はウクライナ戦争、イスラエルとハマスの戦争やイスラエルとイランの間の攻撃等の国際的な戦争・攻撃が頻発しているためか、戦争についての特集の番組が多いし、原子力発電の再開の動きもあってか、原爆(核)に関する報道も多い。ロシアは必ずしも核を使用しないとは言っておらず。場合によっては検討するかのような報道もされており、いよいよ、核戦争や第3次世界大戦かという危惧感は増している。
核爆弾については、その使用について肯定する国はないであろうが、強大国をはじめ、10カ国くらいが保有しているようだし、それ以外でも多くの国が使用するつもりはないと言いながら、みんな核の保有のための開発・準備をしている。
そして、イランやかつてのイラクに対して核を保有しないように要請して、戦争や攻撃を仕掛けていた国や組織もある。核の廃絶、核を生産しないようにと他の国々に呼びかけながら、自らの核保有については他国からの批判を受けつけない強大国の態度は、未だに自己中心的で利己的であるとしか言いようがないが、日本政府はその態度を非難することもできない。
このように核保有については誰もが消極的であるし、表向きは核廃絶を訴えてはいるが、そのこと自体は正論に聞こえるものの、では、他方で核以外の武器の保有は全く自由なのであろうか。前々から、国際平和と言いながら核保有のみを議論の対象としてきたのでは、平和とその実現のむなしさと共に説得力を欠いていると考えるのは私だけであろうか。核爆弾は究極の武器であり、保有するべきではないとしながら、それ以外の武器に対しては各国の保有は議論の俎上にあがっていないように思われる。他の武器の保有は自由ではないと考えていたとしても、核抑止と言いながら武器の保有製造の中止を訴え続けなければ、説得力を持たないのではなかろうか。例えば、ドローンによる攻撃である。ドローンは攻撃する立場に立てば人は死ななくてよいという意味では極めて有効な武器であるが、その分、攻撃が失敗しても攻撃側に人命の損害はないので、攻撃についての抑止力は働かないという意味で、非常に危険な兵器であると思う。
日本国憲法は戦力の保有は認めていないといいながら、実際に自衛隊は巨大な戦力を有しており、いかに自衛のための戦力と言ってはみても、それは表向きだけの理由であり、真実は、戦力には攻撃も自衛もないのであって、客観的に考えるべきであり、自衛隊が有しているのは明らかな攻撃にもなり得る戦力である。
私は、日本は平和主義憲法を持ち、武器を持たずに、言論で平和を守るという以前から憲法学者が展開してきた議論には辟易としてきた一人である。日本が全く武器を持たずに攻撃してくる国や侵入者に対して、平和の重要性を語ることのみで平和的解決を実現するなどというのはまさに偽善以外の何者でもないと思っている。従って、攻撃を仕掛けてくる国や敵に対しては、平和的な手段による説得と同時に、その国や敵に劣らない戦力を持たなければならないはずである。故に、自衛隊は軍隊であり、日本に戦争として攻撃を仕掛けて来る国や、戦争とはいえない侵襲に対しては、それに負けない戦力を備えて防衛して負けないだけの戦力を備えなければならないと考えている。昔から、平和憲法の下で戦力を持ってはならない日本国がどうやって生き延びていくべきかを考える時には、現実的には無理だと感じてきたし、そのような議論を聞くにつけ、日本がアメリカ合衆国の傘下で甘えた平和論を唱えていたことに辟易としてきたということである。
政治家も、これまで正面からは国や敵と戦うとは言えないことが多かったと思うが、これからは正直に、現実的な議論をするべきではないか。そして、決して積極的に戦争に参加して攻撃したいわけではないにしても、国の領土や国民を守るためには国や侵入者に対しては攻撃して闘うことを正面から主張するべきではないかと思う。戦力を持つにはべらぼうに金がかかる。これまではアメリカ合衆国の傘下でアメリカ合衆国に従ってきたが、今後は中国やロシアの強大化に伴い、アメリカ合衆国とても日本を守り切れるとは限らない。その時のために、日本は戦力を整えておかなければならない。
これまで、弁護士だというと、平和憲法を守れ、戦力は持ってはいけない、自衛隊は違憲無効である、戦力は存在が認められないというような議論をしなければならないように感じてきたが、あまりにも空理空論のように思える。もはやそのような時代ではないと思う。国民みんなが、また、国が生き残るために何をすべきかを真摯に考えるべき時期に来たように思う。